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アラフォー独身男のナンパ婚活ブログ

30代独身男じゅんやの株式投資と結婚活動ナンパ報告ブログ

【江戸時代トリビア】混浴春画・結婚・寿司・蕎麦・天ぷら・うんこの面白雑学

このブログでは婚活、ナンパの連れ出し会話で使える雑学、トリビアを取り上げている。

今回は江戸時代、歴史好きな女子【歴女】が喜びそうなネタをランキング形式で紹介しよう。

 

東京に興味ある人、東京旅行にカップルで行った時、

東京でナンパする人、外国の人と話す機会が多い人には特に使えるネタだろう。

 

使える物順で紹介していますが、かなり長くなるので、時間がない人は後で読まれるのをおすすめします。

江戸時代トリビア

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一位)寿司屋の暖簾の汚さは人気店の証

江戸時代 寿司・天ぷら・蕎麦

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寿司は屋台。

 

大きさはおにぎりくらい大きかった。

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のれんは客が帰り際に手を拭くために掛かってた

 

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寿司屋で上がり(茶)が出るのは、寿司をつかんだ手を茶で洗うためだった。


洗った手は暖簾で拭いて手をぬぐって帰った。

なので、暖簾の汚れ具合で人気のある屋台が判った。

 

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よく江戸で握り寿司が誕生した理由に、せっかちで発酵を待てなかったとあるのは間違い。

 

元々なれずし(熟れ鮨(鮓)、馴れ鮨(鮓))とは、海から遠い京などで、そのままでは腐ってしまう魚を食べられるよう生まれた料理。

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江戸は江戸前と言うように町の目の前に漁場があり、なま物を保存する必要がなかったので発酵させない握り寿司が誕生した。

 

発酵ものは最初の一年は我慢もしくはよそから輸入すれば後は前年に漬けてたものがすぐに食えるわけだから、待てないとか関係ない。

 

 

実は今でも当時の寿司を食べることが出来る。

笹巻けぬきすし総本店がそれで、寿司の原型となった店の一つ。

 

※寿司屋さんなど誘う時にさらっと引き出しから取り出して話せるといいですね。

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下ネタ雑学はこちら

混浴トリビア

春画トリビア

 

二位)江戸時代の貨幣1両の価値・食生活

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  • 串団子 4文=100円
  • 納豆 4文=100円
  • ゆで卵1個18文=450円
  • スイカ 40文=1,000円
  • そば・うどん 16400円
  • 天ぷらそば 32800円
  • 鰻めし 1502,625円
  • お冷1杯 4100円
  • 居酒屋・酒1合 26文=650円
  • 酒(1升) 250文=6,250円
  • たばこ(14g) 8文=200円
  • お風呂屋さん 8文=200円
  • 床屋(髪結い) 28文=700円
  • 駕籠(日本橋三越前~吉原まで直線で約5km)200文=5,000円
  • 吉原揚げ代 1両2分=150,000円

 

A5お金の歴史に関するFAQ 日本銀行金融研究所貨幣博物館

http://www.imes.boj.or.jp/cm/history/historyfaq/1ryou.pdf

 
握り寿司はファストフードで、高級品ではない。

現在の貨幣価値で百円~三百円で、大きい握りを食べる事が出来た。
多くの店は店(たな)を持たず、余程でも無い限りは、露天が多い。

因みに、一番高いネタは卵焼きで三百六十円ほどした。

 

脚気対策で蕎麦が流行る

江戸の庶民の間では銀シャリ(白米)を食べるのが粋とされていた。
そのため、おかずを無しにして銀シャリだけ食べる者もいたためミネラル不足から来る脚気が江戸の流行病になるほどだった。


☓ミネラル不足
❍ビタミンB1不足 脚気はビタミンB1不足が原因
日露戦争のときも白米の陸軍は悩まされた。(軍医の森鴎外が白米にこだわった)
海軍は麦めしにしてしのいだ(軍隊に入ったのに麦めしか!と評判悪かった)
現代みたく豚肉や副食たっぷりでは考えられない病気

これ、ちなみにだけど。
日露戦争時の死者の一番の原因が脚気だったんだよね。
戦死者より遥かに多い人数が脚気により死亡している。

まぁ、原因は言わずとしれた白米のせい。

 


江戸で蕎麦が流行ったのは脚気対策。
経験的に蕎麦が脚気に効くとわかっていた。

江戸では炊飯などに使う「薪」も高かったために、
素早く炊ける玄米より白米が普及し、その結果、脚気が"江戸患い"として広まったって話があったな。

 

あと、江戸の周りは植林もしたがそれでも焚き木としての消費量は激しく、日本中、禿山も多かったらしい。

江戸より早く安土桃山時代には関西では燃料資源である木材は切り尽くされていた。
江戸時代後期には東日本でも木材が枯渇してきた
なので浮世絵に描かれている木がまばらな山の姿は、端折ったのではなく写実的なものだった。

 

米食は江戸以外ではまだ珍しく、
参勤交代で江戸に来る武士の楽しみであった。

脚気は当時江戸ぐらいでしか発生しない病気で、
江戸で発症した患者が国許へ帰ると治ってしまうので江戸患いと呼ばれた。


原因は玄米を白米に精米することで不足するビタミンのせいであり、何故かは知られていなかったが(ビタミン豊富な)ソバを食べると改善するので、ソバは江戸っ子の好物となった。

明治になり、それまでの民間療法的な知識は劣ったものとして打ち捨てられてしまったので、
今度は全国で広まりはじめた脚気の研究を一からやり直していた。

 

 

ブラタモリでやっていたが、出雲大社の近くにある蕎麦屋の屋根裏から出て来た当時の「蕎麦クーポン券」がオドロキ。あれ買って江戸からわざわざ食いにくるんだから凄い。

単独でも売ってたけど、ツアーの一部の券らしい。

今なら差し詰めJTBの旅行クーポンにある店指定のディーナー券。


江戸時代は『天ぷら蕎麦』といえば海老ではなく貝柱のかき揚げがのった蕎麦のことをさした。

 

ちなみにこの貝柱っていうのはバカ貝のことらしい

 

蕎麦屋は今でいう相席居酒屋?

だいたいの蕎麦屋の二階は逢い引き場所。

 

現在のラブホテルみたいな使い方をしてた。

 

天ぷらもファーストフード

また、上でも出ている寿司と同じように天ぷらも安価で買える庶民のファーストフードであった、当時の天ぷらは串に具材を挿して揚げたものであり、串揚げの天ぷら版を想像するとわかりやすい。

 

武士が天麩羅を食べるのを恥とされた。

なので、どうしても食べたい場合は手ぬぐいなどで顔を隠して食べに行ったらしい。
ちなみに天麩羅の屋台は河川敷でしか営業できなかったとかなんとか。(防災上の理由)

 

蕎麦の食べ方

江戸人の大好物である蕎麦は、もともと箸で手繰って食べるもので啜るものではなかった。
啜る食べ方が広まったのには落語の影響があるが、その方が蕎麦が空気に触れて美味しくなる……らしい。

ちなみに蕎麦は腹いっぱい食べるのは田舎者の食べ方で、小腹が空いたら適当に食べるものだったとか。

 

 鰻の食べ方

江戸時代の鰻は蒲焼きよりも丸のまま串刺しにして焼いたのにタレや山椒味噌を塗りつけて食べるのが一般的だった、こっちは屋台でやってる店がほとんど。

 

 

行灯の油が貴重なわりには天ぷらがある不思議の理由

高級だったのはろうそく。
灯明に用いられる油としては、戦国末期以降に大陸から伝来した菜の花の普及により、菜種油の供給が急速に増えていった。
その結果、余剰のごま油などは料理に回されたと考えられる。
ちなみに、戦国大名になる前に斎藤道三が売っていた油は、菜種油ではなく荏胡麻油であったと考えられる。

天ぷら=ごま油 綿実油等
行灯=荏胡麻油〔えごまあぶら〕、菜種等の植物性油脂

あの当時から油にも色々と種類があって紅花やら大豆やら色々と有る。
一部では草水(石油)も使われている。

 


肉は無いのかと言われたらあるにはあった、隠語で誤魔化す裏ワザ。

鍋を用いる飲食店などで、【紅葉】【】【】という品目が在る。


コレは薬食いとされ、要する鹿、鶏、馬の鍋といった肉の品書き。
ボタンともいわれるが、もっとひねって【山鯨】というのもある。


猪の隠語だが、武家が食べに来て、鯨にしては変だと、品を聞いたらこっそり店主からは猪だと言われ、仰天したのだが、結局は薬だから平気だと言い張って、また来店するという小話すら残っている。

 

江戸時代に限らないかもしれないが、お坊様もお酒や魚を食べることもあった。

その際、お酒は般若湯、鯛などを松の皮等といい、住職様などが食すことで、ご本尊様も味わえるのだとか。

意外と隠語が多かったかも

 

江戸時代になって白米食が流行り出してから、日本人の体格が貧相に後退したと言われてる。
尤も江戸時代は寒冷期だったので度々飢饉が起きて食糧不足だった面もあるんだろうけどね。その一方で、稲作が出来ない山間部や漁村では獣肉や魚介類を腹一杯喰えたので大男が居たという話もある。

 

江戸時代は飢饉だらけ暗黒時代の嘘

どこどこ○○石の国、というのは実際にそれだけの米が取れるのではなく、この場合はの「石」は貨幣としての意味。


なので収穫できる米+殖産品の総額が、○○石の国という国力を現す表現になっている。
でも、基本申告制だったため、あとから増やした分は藩の丸儲けになるから、開墾やら殖産を推進して石高異常の富が日本全体にあった。

強いて言えば、幕府が貧乏だった時代。


農民は大根でかさを増やした雑穀かスイトンしか喰えず
江戸の庶民は銀シャリや日本中から仕入れた食材を使った寿司天ぷらを仕事帰りに毎日食えた搾取社会という話もある。


時代劇だとやたらと農村は貧乏に描かれるが実際は米もあるしそんなでもない説もある。
まあ米で酒作るんだし米が足りないわけはないよなあ。

 

飢饉が出たのは、換金作物である米を売ってしまってたから、、、という説もある。
ちなみに江戸の街に各地の食材が集まったのは事実だが、それは江戸が一大消費地だったから。

 

東北の貧富の差は、津軽藩の幕政失敗が最大の原因。
あとは江戸時代は気候的に「小氷期」にあった時代。


東北の作物の出来が悪かったのも事実だけど。

東北人が大根かじったのは昭和恐慌の時。
東北の農民がコメを食べられなかったのは、藩の政策でコメを江戸に送っていた。


江戸の食米は東北米。

仙台米が有名。


農民にもいろいろあって、関東の直轄地なんかだと、割と管理が甘い。
だから侠客とか用心棒とか新選組が出た。

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百姓がコメを食えなかったのは、年貢として納めた残りを売って現金に換えていたから。
つまり銭になるコメは売って、銭にならない雑穀を食べていただけのこと。


江戸時代は全国規模の流通網の完成と貨幣経済の浸透によって、換金作物の生産が主流になっていった。

東北などの飢饉は銭になる換金作物を重視した結果、食糧生産がおろそかになり、いざ冷害になったとき対応できなくて食料が足りなくなって生じた。


関東以西の百姓はむしろ金余り気味だった。江戸中期以降に全国でヤクザの活動が盛んになるが、これは金余りの百姓がバクチに手を出し始めたから。

 

余った米を酒やみりんに変えてもやっぱり3000万石は残る。
例え売っても回り回って誰かが喰うしか無いのが米。
最終的に農民も米喰ってた事になる。


年貢が主に米だった。
これは遅れているようで、実は営農人口と非営農人口の比率以上に年貢を上げても、消費できなければ価値が無いってことなんだな。


だから年貢で農村から搾取したところで、何の意味も無い。
なお年貢の領収証が残っている辺りが、なんとも日本人らしいw

 

また農家は秋に収穫した米には手を付けず、前年の米から消費する、
翌年の夏に稲が開花して収穫の見込みが出来たら、前年の米に手を付ける、
この時点で余った米は造り酒屋に売る。


だから春窮は存在しない、不作があっても、誰も助けてくれないので。

 

ちなみに天領だと3.5公6.5民。
100石の知行取りは自領のその年の収穫の35%、100俵の蔵米取りは35俵引く手数料。

 

 

最下級武士(さんぴん侍)の年収は60万円くらい

 

 

侍の身分は金で売り買いが出来た

 

 

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(1) 慶長小判
(2) 元禄小判
(3) 宝永小判
(4) 正徳小判
(5) 享保小判
(6) 元文小判
(7) 文政小判
(8) 天保小判
(9) 安政小判
(10) 万延小判
(11) 天保五両判
(12) 太閤円歩金
(13) 慶長一分金
(14) 元禄二朱金
(15) 唐の甲州露一両金
(16) 甲州一分金
(17) 慶長丁銀
(18) 元禄丁銀
(19) 元文丁銀
(20) 豆板銀
(21) 小型豆板銀(露銀)

 

※買い物や一緒に食事に行く機会が多くなるので、

こういうネタを知っていてしかるべきタイミングで話すことができたら、有意義な時間を過ごすことができたと感じてもらえて、次のデートの約束につながりやすい。

 

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三位)江戸時代、婚活、結婚、離婚事情、モテる男女の条件

江戸時代にモテル男の条件

  • 眉が尻上がり
  • 額が広い
  • ヒゲが無い
  • 歯が白いほどよい

 

江戸時代のお見合い

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当時のお見合い場所には

「水茶屋(寺の境内や花見の時になどに設けられたお茶を出す簡素な店)」が選ばれることが多かった。


江戸時代のお見合いは、現代と違って当人同士が向き合うという形ではなく、人の賑わうところで偶然出会ったという形を装った。

 

今は自分が幸せになるための「結婚」だけど、

当時は家族を幸せにするための「結婚」だった。

 

武家の家では「男女7歳にして席を同じうせず」という儒教の教えがあり、自由恋愛はやりづらかったらしいが、百姓の家は比較的奔放にやれたらしい。

 

離縁状(りえんじょう)三行半という紙切れで離婚が成立した。

公事方御定書では離別状と称した。
あるいは去状(さりじょう)、暇状(いとまじょう)とも呼ばれた。
また、江戸時代には字を書けない人は3本の線とその半分の長さの線を1本書くことにより離縁状と同等の取扱がされていたため、庶民の間では三行半(みくだりはん)という呼称が広まった。


離縁状を夫や妻(または妻の父兄)に交付することで離婚は成立する。

妻が離婚を望んでいるにもかかわらず離縁状を書かないのは夫の恥とされ、また、夫が離縁状を書いても親類や媒酌人(仲人)が預かることも多かった。
さらに、夫からの勝手な一方的離婚の場合には相当量の金銭を妻に持たせてあげることもあった。
このように、必ずしも夫が好き勝手に易々と離婚できる制度ではなかったとされる。
公事方御定書の規定によれば、離別状を受領せずに再婚した妻は髪を剃って親元へ帰され、また、離別状を交付せずに再婚した夫は所払(ところばらい。追放。)の刑に処された。

 

日本最古・最新の離縁状

離縁状の起源について、1965年には石井良助が『江戸の離婚』において、上方で刊行されていた仮名草子の分析から関西では明暦元年(1655年)以前から三行半方式の離縁状が存在し、元禄年間に一般化したと指摘した。

 

なお、江戸時代はいまのアメリカより離婚率が高かったようです。

明治の半ばまで、離婚率は現代の日本より高く、再婚も多かったのです。

 

離縁状 - Wikipedia

 

江戸時代の結婚適齢期


本州、日本の農村での1700~1800年の平均初婚年齢は
男性が25~28歳の間
女性が18~24歳の間

夫婦の年齢差は5歳~7歳男性の方が年上であることが多い。

平均初婚年齢は江戸時代を通じて上昇傾向で、時代を下るごと晩婚化の傾向になる。


1980年の平均初婚年齢

男性 約28歳
女性 約25歳

2015年現代の平均初婚年齢

男性 約31歳
女性 約29歳


参考

www.mhlw.go.jp

 

人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫)

 

 

江戸時代結婚式、婚礼

商家の場合

江戸時代では、両者の父親が合意することが原則で、父親が死亡したりしている場合は、叔父などの男性の親族がそれを務める。


縁組の一番の条件は、両家の家柄や財産に釣り合いがとれていること。

江戸時代の仲人分一(ぶいち)

婚礼の仲人は分一(ぶいち)といって結納金の十分の一が謝礼をもらえる。
仲人を職業としている者もいた。
現代の「お見合いサイト」「結婚相談所」「婚活アプリ」みたいなものですね。


分一は適齢期の娘や息子を物色しては縁談を持ち込んだ。

対象者は男子は四十歳前後まで、女子は二十歳まで。

「十分一(じゅうぶいち) 取るにおろかな舌はなし」
という狂歌が歌われるくらい。

お見合いの場所には水茶屋か芝居見物が選ばれることが多かった。。

お見合い暗黙のルール
当事者を交えた両家がそれとなく観察し、一方が先に席を立つようであれば不成立。

話がまとまれば媒酌人がたてられ「結納」、そしてめでたく「輿入れ」と。

婚礼は迎え入れる側の自宅で、三々九度の盃が交わされて「結婚成立」。

 

農家などの場合


「夜這い」と言って、男が好きになった女の元へ、夜になると通う。
女も男を好きであれば、雨戸などを開けて迎え入れて夜を一緒に過ごした模様。

男がそこそこの田畑を持っていれば、両家の親も見て見ぬふりをした。
そして、ある程度の期間が過ぎて、それでも男女の仲が切れないようであれば、
両家の親同士が話し合って結婚式をあげて、晴れて夫婦となる。


また、「足入れ婚」という制度もありました。

両家の親同士が話し合って娘を男の家に入れ、半年や長い時では一年位共同生活をする。
つまり、男女の相性を確かめると同時に男の家族とも一緒にやっていけるかを確かめていた。
その間に子供でもできれば、即、結婚式となっていた。

 

※これは現代の同棲の進化版かな、少子化対策に使えるのではないだろうか。

 

農家の場合は、嫁をもらうということは男の家の働き手が一人増えるということを意味していたので男の親は慎重に嫁選びをした。

 

江戸の女性はモテまくっていた。

将軍以外の身分の高い奴でも嫁のケツに敷かれていた。
都市部では女性が少ないため離婚してもすぐに再婚できてやりたい放題だったらしい。

 

今も九州は女が多く男不足、東京は女不足と言われてるけど、それ以上だったのでしょうね。

 

江戸時代は近代日本に近く未婚率が高い

江戸時代の都市、江戸では50%以上の庶民が士農工商の、「農」・「工」・「商」のどれにも属せない「雑業」といった職業形態だった。

「日雇取り」(日雇い)、「棒手振り」(移動販売)、「屋台」、「くず拾い」といった現在のフリーターのような人々で現代日本のニートみたいな人も多く、先に述べた男女比が不均衡で女性が少ないことと、経済的に不安があったので一生独身で過ごす男性は多かった。

 

江戸時代の理想の結婚相手は従兄弟(いとこ)

家どうしの付き合いが重要で、互いのことをよく知っているので、一番幸せになれるパターンとのこと。

「あの時邪魔が入らなければ、今頃・・・」と嘆いた松尾芭蕉という俳人もいたとか。。

 

 経験豊富な女性はモテる、処女は非モテ

江戸は初物信仰あるのに女は経験豊富な方がいいらしい。

処女の方がいいじゃんと現代の感覚では思う。

処女信仰は西洋の価値観が流入した明治以降。

寧ろこの時代は処女で居ることのほうが危険だったらしい。
田舎だといい年こいてやらない&嫁げない&性格悪いと何も出来ないごく潰し扱いされて、
最終的に人身供養にだされてしまうこともあったらしい。


なぜ経験豊富な女性のほうがいいかといえば、新生児の死亡率がめっちゃ高かったから
普通に爺さん婆さんもいた江戸の平均寿命が短いのはそのため。

 

「避妊具もない時代にやりまくってたら人口爆発するぞ」

 

という疑念もあるかもしれない。

 

江戸時代の避妊

避妊具はなかったが、事後に飲むことで流産を誘発する堕胎薬はあった。

有名なところだと鬼灯とかの堕胎につながりやすい成分を多く含んだ植物を生薬として服用するとか。

 

そう云えば、女性の貞操に厳しいのは武士社会の事であって、

町人の女性は「誰の子を産むかはあたいの勝手だよ!」というノリで子作りに励んだらしい。

 

5人の子持ちの母が居て、その5人の父親が全部違うといのはよくあったとか。

 

そして母親同志の相互扶助関係があって集団で子育てをして居たという。

 

「親は無くても子は育つ」の親とは父親の事。

 

町人にとって父親は不要若しくは非常に影が薄いという。

日本は母系社会と言われる伝統が生きていたんだろう。 

 

・・・今でも、父親=ATMであって、実質母子家庭ってのが多いからなぁ。

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四位)「ヤバイ」「マジ」「ヘコむ」「きもい」は江戸時代からある言葉

現代の女子高生(JK)も使っている言葉

モテるは「持てる」が語源とされている。
「持てる」「もてはやされる」等からきている。


「ビビる」はもっと古くの平安時代から使われていた。
大軍が動き、鎧が「ビンビン」触れ合ったことからきている。

 

「マジ」は江戸時代に芸人の楽屋言葉として使われていた業界用語。
「真面目」「真剣」「本気」などもマジと読む。
1810年頃の歌舞伎に「ほんに男猫も抱いて見ぬ、まじな心を知りながら」という台詞もあったそう。

 

「ムカつく」は平安時代後期から使われていて、胸焼け吐き気がする状態のことを表す。

 

「ステキ」は素晴らしすぎて叶わない、素敵からきているらしい。

 

「ヤバイ」リアクション芸人で有名な出川哲朗さんが「やばいよやばいよ~」をよく連発で使っていることで知られていますが、犯罪者を収容する施設、牢屋を厄場(ヤクバ)から取られたようです、「ヤクバに入れられるぞ、やばいよやばいよ~」という感じにくだけていった模様。

 

※現在でも日常でよく使う言葉なので、話ふくらませる時に使えますね。

 

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五位)江戸の喫煙率90パーセント超え

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客人が家に訪ねて来たのなら出すのはその家の煙草盆(江戸時代の喫煙セット)であり、緑茶などではない。


また煙草のキセルや携帯用の煙草セットで、
いかに自分のセンスを見せるかが、江戸の人の粋な遊びであった。


江戸ではニガヨモギの煙草が好まれた。
このニガヨモギは、乱暴に言ってしまえば清原和博さんが好みそうなアップ系のドラッグのようなもの。


そのため、江戸っ子気質というのはこれの影響なのではないか、という珍説がある。

火事が多かった理由がなんとなくわかった。

 

江戸時代と言えば、世界ではマッチが開発される以前に江戸ではすでにオイルライターが使われていた。
ジッポライターが開発される随分と前の話だ。

ちなみに発明したのは日本の発明王源内さんです。

 

 

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かぶき者(かぶきもの。傾奇者・歌舞伎者・町奴)町人は、刀や長い脇差の携帯が許されなかった。

 

そこで旗本奴に対抗するための武器として総鉄製の煙管を造らせ、これを携帯していた。

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火の始末に関して、厳重とはいえない記述が出てきたんだ。

曰く、火を付けるのは『トンデモなく面倒くさかった』そうで、前日の燃え残りの火種を灰の中に埋めておき、翌日掘り返して火種として再利用したとか。

何故このようなことがなされたかといえば、火を付けるために代表的な道具として火打石を打つ。

この火打石の片方は金属製で、石を打ちつけて火花をだす。

この火花を火口(ほくち)に移す。

このほくちが、ほぐした藁やイグサを綿のようにしたものらしいんだけれど、これに火花が落ちると小さな火が付く、これを大きくして、今度は燐を塗った薄い鉋くずの様なモノに燃え移らせ、ちり紙にもならなくなった紙やらと一緒にかまどの薪へ火を付けるという方法が存在したとか。


この工程を毎朝毎朝続けるのは非常にめんどうであるし、道具も消耗してしまうので、なるべく一度起こした火種は大事にしたという記述がありました。

消耗品はお金もかかりますしね。

なので、江戸時代のかまどの数は、それほど多くなかったのではないかという説もあります。火事を防ぐため、庶民は共用のかまどを使ったのでは?というものです。

人は便利なモノを求めてしまうので、お上の思惑ほど、火の始末に厳格でなかった例もあるんじゃないでしょうか?

 

江戸後期では薪はほとんど使われず効率の良い炭が主流、
長屋だから薪だと煙が酷く火事騒ぎになるので。

 

 六位)江戸時代の石高ランキングベスト10

※左から順に国名→石高→初代藩主の父→藩格

1加賀 石川   120万石     前田利家 外様
2薩摩 鹿児島72万8千石 島津義弘 外様
3陸奥 宮城   62万石       伊達輝宗 外様
4尾張 愛知   61万9千石 徳川家康 三家
5紀伊 和歌山55万千石   徳川家康 三家
6肥後 熊本 54万石       細川藤孝 外様
7筑前 福岡 47万3千石 黒田孝高 外様
8安芸 広島 42万6千石 浅野長政 外様
9長門 山口 36万石      毛利隆元 外様
10肥前 佐賀 35万7千石 鍋島直茂 外様

 

 参勤交代、大名行列の斬り捨て御免はそこまで厳しくない

大名行列は、別に地面に膝をついて土下座をして見送らなければならないものではない。


それは将軍の行列のみで、他の大名に関してはやれ家の屋根に登って見物したり、茶屋で、お茶を飲みながら見物したりと、それぞれ好き勝手な態勢でいた。

 

また、行列の前に身を乗り出したとしても、いきなり切り捨て御免とはならず、一番前の武士に追い払われて終わるか、その前を走る露払いに排除されてお咎め無しであった。

 

参勤交代にエキストラを使う大名がいた

参勤交代による各藩の負担は、年平均藩全体の3割にも及んでいた。
大名側でも少しでも経費削減しようと色々頑張っており、
江戸の国境までは最低限の人員でダッシュ、
そこからはエキストラを雇って何とか体裁を繕った。

 田舎侍の立場は激弱だった

士農工商」「切り捨て御免」とはいうが、こと江戸においては
他国から来た武士の身分は現地の平民より事実上低かった。


江戸でもめ事を起こせば最悪お取り潰しにもなりかねないため、
それを承知の江戸町民がチキンレース的に他国の武士をおちょくることもままあった。


裏浅葱とか田舎侍!って意味だし…

 

 関所破りは、わりと見逃されてた

関所はとにかく厳しく、通行手形がないと断じて通れないと思われているが、それは間違い。
特別厳しいのが箱根の関所というだけで(しかもそれも別にそんなに厳しくはない)、他の関所は、ほとんど総スルーで通れた。

なので、町民のみならず子どもたちまでも伊勢参りにも行けたわけである。

ちなみに取り調べを受けるときは、対象が女性だった場合はちゃんと女性の係員に取り調べさせた。

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混浴トリビア

七位)江戸時代 銭湯混浴

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当時は蒸し風呂的風呂
お湯は30Cm位しかなく、湯気で汗をかき垢すりをした。
湯気が逃げないため入口は床から数十センチのの高さしか開いて無く、くぐって入った。
照明は蝋燭位だから混浴でも誰でも綺麗に見えた可能性あり。(栄養要素からデブはいない)

 

お風呂屋に湯女という売春婦がいた。

 

江戸時代の銭湯は湯が汚いのをごまかすために薄暗かった。

 

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混浴だったんでしょいいなー そらー家に風呂作らないよな

 

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風呂は混浴ではない。

 

「勝手に混浴」にしていただけで、
幕府からたびたび禁止令が出されていたけど守らなかっただけ。


こういった事例から「未婚の母」が多かったのだが、
「未婚の母」だったり、親がない子だったりしても卑下されたり、
邪険にされたりせずに、町屋単位で普通に育てられていた。

いまの「未婚の母」が蔑まれたりは、武士文化の一部だったり、
明治以降のキリスト教の影響が大きい。

 

温泉風呂は暗い上に湯気がもくもくしていて、若い女の人には付きそいの人がいたのでろくに女の裸なんか見れなかった。
しかも、もし見ようものなら怒られた。

 

【男女混浴】江戸時代のお風呂事情を画像つきでまとめてみた【頻度は?】 | 江戸ガイド

 

 

陰間茶屋という男を買う茶屋が江戸時代からあった。

江戸時代の男娼文化はそうとうなもので、チン先に糞を付けたまま風呂屋にカップルで入浴しにいくのが粋人とされた。


湯島がその聖地。

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春画トリビア

八位春画、エロ時代のトリビア、天保にはハーレムラノベが流行った

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浮世絵は、その当時海外に輸出されていた漆器や陶磁器などの“包み紙”や
緩衝材として使われていた。

なぜ包み紙に使われたかといえば合法的に欧州の貴族が春画を手に入れるため。

 

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性的な物を持てなかった貴族も宗教画や美術品という名目なら対面的にも顔が立った。
「ハハッ!日本のヤツこんな卑Yな絵で包んでやがるぜ(今夜のおかずは決まりだな)」
男という生き物は今も昔も変わらない。

 

 葛飾北斎春画「蛸と海女」

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海女が2匹の蛸に襲われているこの春画は、艶本『喜能会之故真通』(きのえのこまつ)のなかの木版画の1枚。
あの有名な葛飾北斎春画

 

東海道中膝栗毛の喜多八は弥次郎兵衛のお気に入りの元男娼。

 

浮世絵にはいろんな規制対象があるけど
当時江戸のリアルヒーローだった
火消しを描くことは御法度だった


ただ、火消しを描いた浮世絵は現存する。
たとえば歌川国明の「江戸町火消五人揃」とか。

江戸の街の火消はイケメンしかなれなかった

浮世絵は今で言うグラビアや写真集、雑誌といった扱いで、
存分に眺めて堪能した後は古新聞のように包み紙などに使われた。
一種のリユースリサイクルである。


春画は違法だったのだが、ネコ耳娘の春画を描いて、お役人に文句を言われたら、
「お前これ人に見えるの? 奇特な奴だな!」って切り替えしたって話もあったらしい。

 

ようするに、日本人は遺伝子レベルからしてHENTAIの業から逃れられないの。

 

この当時は巨乳という概念がない。

寧ろただのテブ扱いだ。色気をアピールするポイントが今とまるで違う。足とか尻とかうなじとかだ。浮世絵でも胸元を強調したものがない。

春画は青年誌でありレディースコミックでありファッション雑誌であり写真週刊紙であった。

いうなれば「ムネのでかい姉ちゃんが乱舞しているが男性用ビデオではない。

ギャグありストーリーあり流行の発信元でもある現代の深夜アニメ」みたいな位置付け。

春画には大人のおもちゃの広告が掲載され、
さらに絵の中でそのおもちゃを使ったシーンを盛り込み商品名も記載されて宣伝していた。

 

勝海舟が座談で、アメリカに行った時、アメリカ人をからかってやろうと春画を持って行ったと話してた。
サンフランシスコで街の名士達に見せたら、「けしからん!」と顔を真っ赤にして怒った判事が、夜になって「あの絵を譲ってくれ」と船に来たそうで、
「俺は、アメリカ人が公私の別をはっきり分けるのに感心したよ」と言ってた。

勝海舟ぐう畜説

 

江戸時代はフリーセックスなエロ時代。

幕末江戸に入った西洋人の渡り舟に春画を放り投げて、拾い上げてニヤつく外人様子を見て笑ってたとか言う話もある。


WW2(第二次世界大戦)のあと、日本の文化人とアメリカの文化人の座談会で
美人(艶っぽい)ひとはどのような人かの話題になり、種々の条件が出たが
アメリカ人が恥ずかしそうに「胸の大きい人も・・・」と言ったが、ぞの場にいた日本人はポカーンとして「意味不明ww」って顔していたという逸話をきいたことがある。

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九位)江戸は埋立地が多いので井戸がない

下の話の後は、真面目なトリビアでも。

当時の下水処理やリサイクルシステムが世界でもトップクラス。

 

時代劇など、井戸端会議されている場面が多く見受けられるが、井戸は使われていなかった。

 深川は埋め立て地だったから水は買う。

 かまどの灰も灰買いが買ってくれた。

 

江戸の街は蚊取り線香のように渦巻き状に巨大化していったため、
都市計画が微妙ではあったけど驚くほど早く拡大してゆくことができた。

 

喫茶店に入った時、飲食店で水飲んでる時の会話のネタとして使える。

最初から読む

 

勝海舟トリビア

10位)裏名言の多い勝海舟、ぐう畜説

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勝海舟は咸臨丸に乗って海を渡ったことだけがクローズアップしているが、
船の上では操船どころか船酔いはひどいわ、威張るわ、知識はないわで大変お荷物だったそうだ。

 

日本ワインの父

ブドウの棚栽培は江戸に考案された。

勝海舟は、坂本竜馬以外にも意外な人物に助言している。
幕末に越後の川上という家が尊王志士に肩入れしたために勝海舟と縁ができたのだが、
そこの長男が「欧米と渡り合うには日本もワインが無くてはならん」
という勝の勧めで、本格的な国産ワイン醸造を始めることになる。


多大な苦労の後、「日本ワインの父」と呼ばれるほどの功績を残し、
その事業は「岩の原葡萄園」が今日まで受け継いでいる。

 

坂本龍馬勝海舟

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勝海舟を斬りに来た龍馬を諫め、自分の弟子にしたという話は有名だが、
実はこの話の出処は勝海舟本人で、他の証言は出ていない。

そのため、実は元々龍馬は話を聞きに来ただけなんではないか、という説もある。

 

勝海舟が嫁に嫌われてた理由

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勝海舟が嫁さんにメタ糞言われてるのは妾囲いすぎで
女中はほとんどが手付きだったらしい。


しかも家の中じゃデカマラをいつもボロンと出してとか

勝海舟は、子供の頃犬に噛まれ片金だった。

 

勝海舟は嫁に隣に埋めないでって言われるレベルだから人間としてはちょっと…ってイメージが強いな。

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最初から読む

番外編)江戸時代うんこ、糞尿、肥やしの話※食事中読むの禁止

江戸は17~19世紀の欧米の都市にに比べたら人口が多く、綺麗な街並みだった。


江戸も当初は欧米の大都市のように住民の殆どが家庭ゴミを家の外に投げ棄てており、挙げ句はウンコすら捨てていたが、住環境が悪化したので流石に改善した。

 

栄養いい食事をしていた殿様のうんこは高値で売れた。

大名家の屋敷から出る人糞を扱う「権利」が結構な値段で売られていたくらいだからな。

ウ○コ汲みが「○✕能登守様御用」なんて笑えるが、下水道のない地域で金を払ってバキュームカーに持って行かせているのが馬鹿らしく聞こえる話だな。

 

人糞のリサイクルシステムがよく言われるが、見た目は清潔で合理的な反面、実は一日中そこいらを運びまくっているので町中が非常に臭かったらしい。

 

江戸に限らず日本では人糞も肥料として使っていた。

この肥料を集めるため、街道筋には公衆便所が設置され、定期的に糞を集めていた。街中でも長屋毎に供用トイレが在り、農家がそれらを買っていった。

なので、街中で馬などが糞をしたら即座に回収され、金に換えられたそうな。

 

この糞の扱いについて、同じ時代のフランス等では窓から投げ捨てていて、路上の糞を踏まないようハイヒールができた等といわれるぐらい不衛生であったそうで、これらの排せつ物を何故肥料として活用しなかったのか?

と調べてビックリ。

人糞を使うのが嫌だから、家畜の糞などを肥料に用いていたそうで、後年、日本の肥料の使い方は欧州より優れていた。と農学者の言葉がったという。

日本が肥料をよく使ったのは、少ない農耕地を有効利用するためだったそうだけど、もし、欧州でも人糞を肥料に使うことがあれば、欧州での食糧難や、ペストの流行が無かったかもしれず、歴史そのものが異なった可能性まであると考えると、『ウンコ』などと侮れない。


発酵させてるから虫がうつるなんてありえないという話もあるが、
完成品ならそうだが、未完成品に関わる機会はいくらでもある。
せめてもの予防法として日本人は生野菜を食べなかった。

必ず熱を通して食べた。
でも、まあ今のように手洗いをまめにしない時代では焼け石に水だったが。

 

其のせいで日本人は、この間まで、パラサイトに悩まされていた。
第一次大戦で、捕虜になったドイツ人が人糞を其のまま畑に蒔いてるのを見て驚愕したらしい。


因みに、欧州では藁や落ち葉等と牛馬の糞をまぜ発酵させ、其の発酵熱で虫卵を殺してから肥料として使用した。
日本のように生のまま畑に蒔いたりは、していない。
公衆衛生的には、伝染病と、パラサイト、まあどうかな。

ただ下肥は発酵させる。

昔の日本でも生では撒かないのが一般的。

生の糞尿を撒くと発生したガスで作物が枯れるので、一旦肥溜めに貯めて発酵させてから使います。


なもんで、通常は肥だめには雪が積もらないんだけど、発酵終わってると普通に津もるんで、気付かずに上を通ると、、、、となる。

だいぶ前だけど、韓国の屎尿処理業者が、海に捨てるなとか命令されたかなんかで貯まって手に負えなくなってそのまま田畑にブチ播いて大惨事起こしてたな、、、

 

野壷の事ね、

 

植物は有機質を吸収できないから、下肥も醗酵させて尿素や硝酸とかが出来て来たから田畑に撒いてたというからな。

生物学なんて学問は知らんでも長年蓄積した経験値で耕作の基本は理解していたんだな。

ホームセンターで市販されている牛糞とは、臭いがしないように完全発酵させたもののことだと思います。

発酵が不完全もしくは発酵中ならば当然牛糞も臭います。
先程、生の糞尿はガスが発生すると書きましたが、ガスが発生するということは、発酵が行われているということであり、糞尿のみであっても発酵は生じます。

ただ、発酵を促進させるために、乾燥した有機物を添加することで、完全発酵に近づくのではないかと考えます。


糞を完全発酵させるには藁などと交互に重ねた後、たまに切り返しをして混ぜなければならない。
結構メンドウな事になる。
大概は其のまま蒔くと作物の根が腐るため、水で薄めて柄杓で蒔いていた。
之が肥柄杓ね、之で水を飲ませるのは、落語や昔の映画のお約束シーン。

そんな訳で、ギョウチュウ、回虫、サナダムシといった類の物は、お友達だった。
現在でも、東南アジアでは、農民の虫卵保有率は100パーセントと言われる。


下肥を使う以上こいつは、宿命だな。


肥一つとっても知恵が生きるかどうかってなるねぇ。

長い柄杓で肥をすくい取るなら、その過程でまぜこんでそうだけど、不完全な発酵が多かったのかなぁ?それとも面倒、いや、嵩増しで水で薄めてたのかも…

しかし、それだけ丁寧に発酵させる方法が在るなら、人糞使っても虫の卵に悩まされなさそうなもんだけど、何故使わなかった欧州人?


馬に蹄鉄の文化が無かったために草鞋を履かせていけど耐久性が殆どなく頻繁に交換しなきゃならんかった。


しかしボロボロでダメになった草鞋は上にもでてるけど糞尿と混ぜて堆肥にするのに便利だから子供たちが馬子の後を付いて行って拾い集めて小遣い稼ぎしてた。

糞尿回収するにもお得意さんが居て、適当な長屋から糞尿買おうとするとフルボッコされる恐れがあった。
あと良いモノを食べてる処の糞尿は人気だったために、夜中にこっそり盗んでいく糞尿泥棒が出たりした。

長屋に住んでいる者は皆で金を少しずつ工面して貯金し誰かが困った時に使える様にしていた。
さらに色んな行商が長屋まで訪ねてくるので、出歩かなくてもそれなりに生活できた。


今でも下水処理場からでる汚泥から肥料作ってる。

 

江戸のクソの話のついでに、戦国時代だっけか、西洋はクソをその辺に捨てるから火薬の原料が多く産出されたが、日本は畑で利用するから後に火薬を作れるようになるまで火薬パウダーを樽一個と日本娘と交換してたって有名な話がある。

種子島に銃が一丁もたらされたら数年で日本全国で所有されるようになってて西洋人がびっくらこいたってね。

 

ただ火薬の原料は、クソじゃなくてションベン、アンモニアを酸化させたものだからな。

西洋では硝石に依存していたが、日本では古便所の床下の土から採取する方法が見つかる。
後にションベンを土に掛ける方法に変わり、そのため関西の便所では、汲み桶が別々になっていた。


西洋で窒素の固定に成功するのは20世紀。

窒素の固定ってボッシュ法。
それも元々は肥料を増産する目的だったのに火薬に使われた。
結局糞尿と同じ道を歩んだわけだ。。。


輸入硝石でまかなえるようになるまで、やっぱり土から取ってた。
フランスあたりじゃ、王様に家畜小屋や地下室の床壁土を徴収する権利があるとか法律作られて、「大事な肥料を取り上げられた」って農民が怒ったそうな。


正確には欧州でも硝石は産出しない。
結晶として産出するのは、チリなど極度に乾燥した土地に限られる。
欧州でも硝石採集人という職があり、他人の家の便所の周りを勝手に掘り返す事を王より認められていた。


笑い話だが、
硝石採集人の収入は硝石を売るより、掘り返すのを見逃す代わりに家人より貰う賄賂のほうが多かったと言われる。

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最初から読む

その他・会話で使える江戸時代の雑学トリビア

中国人の爆買いで話題になっているオシャレ街銀座。

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この銀座には銀座と金座があった。

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この銀座は江戸時代に、江戸幕府の銀貨を作る役所があった。

徳川家康がいた駿府の銀貨を作るお役所「銀座」を、江戸の「銀座」に移した。

 

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そして金座もあった。

 

 

札付きの悪

 

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江戸時代、戸籍に相当する「人別帳」があった。

 また、家族や隣近所のうち、一人が罪を犯すと皆が罪に問われる「連座制」の制度がありました。 

そのため、将来、犯罪を起こしそうな者は、あらかじめ縁を切り、その記録として、「人別帳」に記載されたその者の名前に札を貼り付けておくようになりました。

この、親から縁を切られることを「勘当」と言いました。

これが「札付き」で、家族などからも見放されるような悪党(ワル)を「あいつは札付きの悪だよ!」と言うようになったそうです。

 

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江戸時代に象がきた!

象は、室町時代から江戸時代にかけて数回にわたって、時の為政者への献上物として渡来しています。

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享保13年(1728)、オス・メス2頭の象が長崎の港に到着。

この象は交趾(こうし:現在のベトナム)生まれで、中国の商人が徳川吉宗に献上したものです。

しかし、残念ながらメスの象が病死、オスの象が江戸を目指すことに。

 

そして京都に到着したこの象をなんと「天皇」も見たいという、

しかし、天皇のいる宮中には「官位」がないと入れない

そのため象に「従四位」を与えています。

従四位」といえば島津や鍋島、伊達など大名殿様クラスです。

ということで、この象は士農工商の頂点侍よりも偉い身分になった。


その後、東海道を江戸に向けて長い旅を行った象は、一か月をかけて無事に江戸に到着し、江戸城に登城。

将軍徳川吉宗に見物され、将軍のお披露目を済ませた象は、町民、庶民にも公開されることとなり見物客が殺到し、江戸中で象ブームが起こる。

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そこに目を付けたのは、江戸の商人たち、象の関連本やスゴロクなどの関連グッズを作り大ヒットしました。
さすが江戸の商人です。抜け目がないですね。

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ちなみに、この像は13年間飼われたが、維持費が高いという理由で、ついに見物料をとって一般庶民に見学させることとなる。今で言う動物園の走りですね。


この数奇な運命をたどって日本にきた象ですが、15年間の滞在生活の後、1742年にこの世を去りました。

この象が死んだ後は、
料理人が買い取り、お吸い物にして売り出したそうです、江戸の商人の商魂たくましい!

 


江戸時代の美人の条件・基準

江戸時代庶民にとっての美人の基準

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容姿・身体能力

  • 色白
  • 豊かで美しい黒髪
  • ふっくらとした丸顔
  • すらりとした長身
  • 長い手足
  • あごは細めのシャープな顔立ち
  • きりりとした濃い眉
  • 切れ長で涼しげな目元
  • 全体的に可憐でかわいらしい少女風
  • なで肩、柳腰の華奢なスタイル
  • 小さくぷっくりとした唇
  • 素足が美しい
  • 手足の指は豊かに細い
  • 姿かたちはしとやか
  • 肉付きがいい
  • 目つきが利口そう
  • 肌は雪と争うほど美しいこと
  • 声が澄んでいること

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しぐさ、性格、内的能力

  • 床上手
  • プレゼントをもらわない
  • 長い手紙が書ける
  • 情け深い
  • お琴・三味線が上手
生類憐れみの令、では蚊すら殺せなかった?

蚊を殺して、閉門改易(クビ)になった江戸城詰めの小姓、
島流しになった天領の農民、という実話がある。

 

日本で銃規制がすんなりいったのは徳川綱吉の生類憐れみの令のおかげ?

生類憐みの令で鉄砲を回収するまでは各藩が所有していた銃より、農民が所持していた銃の方が多かった。
害獣を追い払うためバンバン撃ってた。

 

美人をリストラした節約将軍吉宗

大奥では、御中臈(おちゅうろう)以下は直接将軍とは会えない。

新しい将軍が自分の中臈を指名するのだが、大奥の経費がかかり過ぎているので、美人の名を50人書き出させ、美人なら家元に帰しても嫁の貰い手があるだろうと、暇を出させた。

 

それと共に、実際に美人は性に合わなかったらしい。

また、倹約公方といわれる程節約もした。普段よりも、おかずが一品多いと手をたたいて喜んだという。

早い話が、ブスの方が好きだったという。

 

美男子が二枚目と言われる理由

 現代でハンサムな人を二枚目と言うわけだけど、

由来は江戸時代の歌舞伎の絵看板のあげ方から来ています。

 

芝居小屋では激情の正面口に八枚の絵看板を飾っていた。

 

歌舞伎興行の際、

「一枚目」が「書出し」で人気も実力もある若手役者、
「二枚目」に座頭に続く人気スター色男役者、

「三枚目」にそれに続く格のおちゃらけた道化役者、

「四枚目」が「中軸」で中堅役者、

「五枚目」が「敵役」で敵役の役者、

「六枚目」が「実敵(じつがたき)」で善人の要素を持つ二枚目の敵役、

「七枚目」が「実悪」で最も徹底した悪人に扮する敵役、
「八枚目」最後に「座頭(ざがしら)」が並ぶ。
「八枚看板」と言われる並べ方となる。

 

「○枚目半」は、本来の意味から離れた用法。
「四枚目」以降も、ほとんどの場合、「三枚目以下」という意味で
派生したもので、本来の「四枚目」「五枚目」… とは、関係ないと。

 

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髪の毛を集める仕事があった

 

火鉢を使い始めて良い日が決まってた

 

わかさぎ名前の由来

公魚(わかさぎ)は、徳川家康が大好物だったためにこの漢字が付いた

 

人相書きは似顔絵じゃなくて特徴を文章で書き記しただけのものだった

将軍は専用の特別な赤っぽい謎の酒しか飲めなかった。


将軍が飲んでいた謎の赤い酒は古酒。
日本酒を常温でほっておくと赤茶色になる。
献上物の酒を古いものから消費するのでそうなる。
ちなみに読み方は「こしゅ」ではなく「ふるざけ」。
新酒がでたら、みんな古酒になるんだけど。

 

 砂糖は薬局で売買されていた
 江戸っ子は旬のものが好き

江戸っ子は走りモノ(旬よりも早い)好きで、様々なモノが売れた。
初鰹の最高の時は、一尾に二十万という値段も記録されている。
コレを買うために、妻を質には入れないが、冬物の着物や、綿入れ布団を売っ払う人が多く、その為に、値段がつり上がった。

実野菜も人気で、障子紙と火を用いた原始的なハウス栽培も出来たが、値段高騰を危惧したお上は、もやしモノ(速成栽培)禁止のふれを出したほどだった。
作る側はもちろん、売った方も買った方もバレた場合は罰金を課せられる。

 

おみくじ

御御籤は各家庭にあるもので、今のように神社で引くものではなかった。
みな今日の運勢を自宅で占うのが普通だったのだ。

 

羊羹

裕福な人の家に尋ね、おもてなしとして羊羹を出されても、それを食べてはいけなかった。

それは来客ごとに使いまわして出すためで、食べるためのものではなかったため、
そういった暗黙の了解を知らない人がうっかり食べてしまうと、無粋なヤツとして家主に睨まれた。

ちなみに、一週間ほどでカピカピになるので、そしたらやっと家主の腹におさまるのであった。

 

ちなみに羊羹は中国の料理で、読羊の羹(あつもの)、つまりは羊の肉を煮たスープの類だった。

それが、鎌倉時代から室町時代に、禅僧によって日本に伝えられたが、日本には羊がいないのと、
禅宗では肉食が戒律(五戒)により禁じられているため、精進料理として羊肉の代わりに小豆を用いたものが、日本における羊羹の原型になったとされる。


初期の羊羹は、小豆を小麦粉または葛粉と混ぜて作る蒸し羊羹であった。蒸し羊羹からは、芋羊羹やういろうが派生している。
また、当時は砂糖が国産できなかったために大変貴重であり、一般的な羊羹の味付けには甘葛などが用いられることが多く、砂糖を用いた羊羹は特に「砂糖羊羹」と称していた。
だが、17世紀以後琉球王国奄美群島などで黒砂糖の生産が開始されて薩摩藩によって日本本土に持ち込まれると、砂糖が用いられるのが一般的になり、甘葛を用いる製法は廃れていった。

羊羹 - Wikipedia

 

 

江戸時代の農民の数学知識激高

江戸時代の農民の数学知識は、場合によっては現代の大学生を軽く超えていた。

必ずしも綺麗な形に作れない田畑の収穫量の計算をはじめ、
「神社への奉納」という形での自作の計算問題がたびたび公開され、
そういうのがエスカレートして、今でいうネットの掲示板上で行われるような糞レベルの高い数学バトルが繰り広げられていた。

 

ライト兄弟より早い時期に飛んだ?浮田幸吉

世界初の友人グライダー飛行は日本人だった可能性がある。

江戸時代中期に浮田幸吉という人物が飛行したという記録が残っているが、
当時は狂人扱いされた上に記録もあいまいなため謎のまま。

 
数の子は下衆な食べ物?

江戸時代、数の子は下衆な食べ物として安く流通していた。
その理由は、食べるときに音が大きく鳴るため。
江戸っ子の間では、音のならない食べ物が粋として持て囃されていた。

しかし、数の子は塩っ気があるため、飯がとにかくよく進んだ。
そのため、来客にはあまり出されなかったと言われる。

 

 

伊勢参り

伊勢参りにはいろんな人々が赴いたが、其の中には子供や犬まで含まれている
丁稚奉公の子どもたちが、ある日パタッと集団でいなくなる場合がある
それは大抵伊勢参りに向かったもので、伊勢参りのために無断で行方不明になるのも
基本的に許されていた。

また、犬が伊勢参りをするのも複数報告されている。
伊勢参りをする犬は、首にカゴを着けている。
そのカゴに道中の人々が食べ物などを差し入れるわけだ。

 

無届けの伊勢参りは抜け参りと呼ばれ子供でも道々で施しを貰い旅行をしていた。
勝海舟の親父で江戸最強説のある勝小吉も子供の頃に抜け参りをしている。

 

勝小吉の夢醉独言おもしろい。

 

勝海舟ぐう畜説

 

江戸の町には区域ごとに木戸というゲートがあり、夜間は閉鎖されていたため 一般人は夜間の往来が不可能だった。

例外は火消し等公務についている人物のみ。 この木戸を通過するため 赤穂浪士は火消しの衣装で偽装した。  

その"苦行"に江戸時代の人口の6人に一人だか5人に1人だかが詣でたらしい。

wikiによれば江戸から伊勢までは片道15日程度。

東北からは100日前後だそうで。

遠方などでは村から数人選ばれて、代表で赴くことも多かったらしい。

江戸の街でも町屋単位で出したり。

江戸時代では大きな街道をそれたよほど寂れた小路やその山道、夜にでも出歩かない限りは、 女性でも普通に往来できたほど治安が良く、お伊勢参りの人には沿道の人も歓待したらしい。

 

 

歩ける距離で里の長さは異なる

距離の単位とされる「里」は実は「歩ける距離」を表している。
「男十里 女九里」と言われるが、歩きやすい平地の街道に比べて峠道では進める距離が短くなり、それを考慮して難所の一里は短い。
それによって○○里と言えば何日歩くことになるかが簡単に計算できた。

 


江戸の町には区域ごとに木戸というゲートがあり、夜間は閉鎖されていたため
一般人は夜間の往来が不可能だった。

 

例外は火消し等公務についている人物のみ。

この木戸を通過するため
赤穂浪士は火消しの衣装で偽装した。

 

 ペリー艦隊はどこから来たのか?

ペリー率いる黒船はアメリカから直接日本に来たわけでなく、
当時インドにあったアメリカ海軍東インド艦隊が派遣されたもの。

 

 

侍とナッパ

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侍は味噌汁には必ず菜っ葉を入れ、まずそれを箸で上げて戻し、最後に菜っ葉を食べていた。


「菜を上げる(名を上げる)」、「菜を残す(名を残す)」に引っ掛けた願掛けである。

 

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焼き芋のぼり

焼き芋ののぼりには「○焼き(一本丸ごと)」とか「八里半(九里=クリに近い旨さ)」とか書かれてた。

 

 

江戸時代河豚度胸試し

江戸時代はフグが普通に魚屋で売っていた。

片手にフグを持った友人が、一杯やろうと家を訪ねてくる。
それを断れるのは、基本的に女房持ちに限定されていた。
女房持ち以外の者が断ると、臆病者扱いを受けることになる。
それだけは江戸っ子として、なんとか避けたかった。

そして、今日もまた人死にが出るわけである。

 

最初から読む

 赤穂浪士切腹伝説

赤穂浪士四十七士の処刑は全員分で一時間半で終わった。
切腹が形骸化して単なる打ち首であったために素早く終わった。

 

古事記が読めるのは誰のおかげ?

江戸時代の国学者本居宣長が居なければ現代に於いて古事記は読めない。
当時、古事記は解読不能だった。それを約35年掛けて解読した。

 

瓦の家

明暦の大火(1657年)から享保5年(1720年)までの間は瓦屋根は禁止されていたので、この間の江戸の屋根はほぼ板葺き屋根。

江戸に瓦屋根が広まったのは暴れん坊将軍が瓦葺き禁止令を廃止し、瓦葺きを奨励する助成金制度をつくったから。

 

近藤勇、拳を口に突っ込んでいた理由

新選組近藤勇楠木正成を尊敬していたが、楠木正成が出来たという理由だけで、
拳を口に突っ込んだり出したりする一発芸を繰り返し繰り返し練習していた。

 

 一揆が一番多かった藩は?

全国で最も百姓一揆が頻発したのは南部藩の156回。
二年に一度百姓一揆が起こっていた計算になる。

とりわけ、幕末に起きた百姓一揆は、百姓たちが強訴ではなく仙台藩への集団移住を望んだため、
それにより南部藩は仙台藩に借りができてしまった。
南部藩が奥羽列藩同盟に参加したのはこのことが遠因だと言われている。

 

世界初の入れ歯

世界で初めて作られた入れ歯は江戸時代!! 材料は勿論…木

ハゲに優しい江戸時代、育毛剤いらず!

 ちょんまげ(丁髷)は、髪の毛がさびしくなった男性のみのヘアースタイル。

髪の毛が豊かな男性は、丁髷じゃない髷(まげ)を結っていた。
一番人気は本多髷(本田髷)だったようだが、この本多髷にも色々バリエーションがあった。
髷には町人髷と侍髷とが在って、職業によっても違ったといいますね。
お医者様は総髪か、坊主頭であったとか。

 

歌舞伎は腐女子の娯楽

歌舞伎は現在のように高尚な日本文化じゃなくて、
江戸の日常ニュースやスキャンダルや政治揶揄や変身ヒーローの大活躍を見るための
庶民の娯楽だった。
当然役者は全員男なので女性は美男子が演じた。
そして男同士の濡れ場では若い娘さんが黄色い悲鳴をあげた。
このころから腐ってる女子はいた。

 

「宵越しの銭は持たない」は負け惜しみ

江戸のすっぱい葡萄の狐。

江戸の街に住む町人は、ほぼ全てがフリーターで、その日の生活費をその日に稼ぎ、一日で大抵使いきっていた。
「宵越しの銭は持たない」というのはそれを表した負け惜しみ。

 

江戸の町は火事が非常に多く、蓄財しても一瞬で無一文になる恐れがあった。
一方その日暮らしでやっていけるほど仕事があったので、稼いだ金はその日のうちに使うという風習が出来た。
それが宵越しの銭は持たないの背景。

 

ただ、宵越しの金は持たないの宵は大みそかの夜のことだったらしい。

江戸では火事が多かったため身の周りの実用品はすべてレンタル。
米、みそなどと一緒に年末に料金精算。
その為師匠だって金策に走り回る。

 

 貸ふんどし屋

江戸では独身が多かったので使ったフンドシをクリーニング屋に出して洗濯済みのものをつかっていた、今でいうフンドシシェアシステム。

 

 

田舎侍は辛いよ

外様大名が江戸に入るとペーペーの下っ端町人にもバカにされるレベル。

 

江戸時代関係あるかどうかだけど『サツマイモ』のことを『マルジュウ』と呼ぶことが在る。

サツマイモの名前が薩摩から日本各地に伝わった芋だから薩摩芋なのと同じく、薩摩藩の家紋が『丸の中に十の字』を書いたものであったことから、このような呼び方となったそうな。

もう一つ、食べ物で言うと、江戸も初めは醤油は非常に高価で、専ら京都周辺で作られていて、収める先もそれなりの階級の人々しか口にできなかった。なので、調味料といえば塩であり、庶民が口にできるようになったのは、江戸の中期ごろ、醤油の産地が増えて安価になってからであった。

で、塩だけでは文字通り味気ないので、『煎り酒』という調味料があった。その名の通り、お酒と塩、梅干し、鰹節等を煮詰めて濾したもので、醤油が広まるにつれ、姿を消していったそうな。

 

 

 飛脚は特殊能力の持ち主

飛脚がフルマラソン走ってたら90分くらいで走れるのかな?

何かの本で読んだが、
腕と足を別々に振り出す走るという行為は、一般人には出来なかったって言う話がある。
つまり走るという行為は特殊技能で、飛脚は、一種の職人さん。
何か嘘臭いけど、
幕府が軍隊の教練でナンバ歩きの矯正に苦労した現実も有るし。
一寸気になる。

ナンバ走りの右手と右脚、左手と左脚を同時に出す走り方と同じ動作は、
階段の上り下りで普通に今でもしているんだよね。

 

 

 

 江戸時代の男の食べる量

江戸では、朝にその日のご飯をいっぺんに炊いちゃうらしい。
男五合 女三号。

朝 ご飯とみそ汁
昼 ご飯とみそ汁とおかず
夜 残ったご飯で、お茶漬けかおじや ・・・・だったとか。


男5合てのは玄米換算でだね。
武士の給料で1人扶持てのは成人男性1人が食う量として1日玄米5合で計算して、1年で5俵に相当する。

結構な量食べてて当時の人は内臓が米に特化してたという説も聞いたけど、どんなもんだろ。


武士の食事は、一日玄米五合と僅かな副食。
鎌倉のむかしから江戸時代の初期まで、基本的には「朝餉、夕餉」の一日二回食であり、朝に二合五勺を食べ、夕食として残りの二合五勺をとって力をつける。
贅沢を嗜め、これが進められていた。文献にも残っている。

 

山師や漁師などの労働者は、一日四回、朝、昼、三時、晩と四回武士と同じ二合五勺でも一日一升。


労働を考えればこれでは、足りない。

昭和初期の工場労働者の平均は、一日玄米六合と副食。
之も文献に残っている。

帝国陸軍では、
陸軍給与令では戦時でも兵士一人当たり1日精米640gと精麦200g計六合(または乾パン675g)、缶詰肉150g(または生肉か卵120~200g)、乾燥野菜110g、漬物類、調味料、飲料(茶)、嗜好品(清酒、火酒、甘味品、紙巻き煙草)を出征部隊にすべて現品で支給されることになっている。


飛脚は夜ごはんを取らなかったから、朝と昼をたくさん食べたとも言いますね。

日が暮れちゃうとできることもないので寝るに限るとか。夜なべも燃料費と釣り合うかかなりのドキドキ作業ですしね。

なので、深夜営業のそばの屋台が飛脚や籠屋など夜間まで仕事をする人たちに愛用されたとか。

実際は、もっと食べる。
宮使えの武士ですら五合なのだからね。
山仕事をする人間などは、一升程も食う、
山師の使うメンパは、片側に五合入り、之を合わせ一升もって山に行く、
之を毛抜き合わせと、言う。


幾ら副食が無いとはいえ、えらい大食だ。
故に、
信州の山間から江戸に出稼ぎに来る長野の人間などは、
信濃者の五杯飯などと言われた。


当時の川柳にも
信濃者三杯目からは噛んで食い、
人並みに食へば信濃は安いもの、と有る。

 
盲腸で死ぬ人も

当時は盲腸の外科手術なんてないので発病したら苦しみぬいた挙句に亡くなった

 

麻酔のシンボルマークは朝鮮朝顔

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日本麻酔科学会のシンボルマーク、朝鮮朝顔は江戸時代にもたらされた。

チョウセンアサガオ朝鮮朝顔)= マンダラゲ(曼陀羅華) = キチガイナスビ(気違い茄子)
日本へは、江戸時代 (1684年) に薬用植物としてもたらされ、現在は本州以南で帰化・野生化したものが見られる。

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毒性
経口後30分程度で口渇が発現し,体のふらつき,嘔気,倦怠感,眠気。 ヒオスチアミン Hyoscyamine, スコポラミン Scopolamine などのトロパンアルカロイド

チョウセンアサガオの薬効は、古くから知られており、中国明代の医学書「本草綱目」にも、患部を切開する際、熱酒に混ぜて服用させれば苦痛を感じないとの記述がある。
ベラドンナハシリドコロなどと同様にアトロピンを含んでおり、過去には鎮痙薬として使用された。世界初の全身麻酔手術に成功した江戸時代の医学者である華岡青洲は、本種を主成分としていた精製した麻酔薬を使用していた。


このことから日本麻酔科学会のシンボルマークに本種の花が採用されている。
薬用植物ではあるが毒性も著しく強く、「キチガイナスビ」といった別名を持つ。
近年ではオウム真理教が「ダツラの技法」と称して信者を洗脳、自白させるための薬物原料に本種を用いたため、園芸名の「ダチュラ」にもマイナスイメージが付いた。
近年ではエンジェルズ・トランペットの名で園芸店で販売されている場合が多い。

 

チョウセンアサガオ - Wikipedia

 

 

幕末頃の江戸で起きた喧嘩は綱引きで勝敗を決めていた

 

夜の灯は貴重品

電球が無かった時代だったから、わりと時代劇の描写は嘘が多かったりする。
歌舞伎は建物の上に天窓が開いてて、その光で鑑賞してた。
あとは明かりは魚油の行灯とかは有名(それでも貴重品だったから火は頻繁に消してた)

 

切腹のやり方

切腹は本当に腹を切ってた訳じゃなく、切腹人が木刀や扇子に手をかけようとした瞬間に介錯人が首を落とすという手法で、赤穂浪士もそんな感じで切腹した。

 

江戸日本人像は三河

実は戦国時代の延長が江戸時代ではない。

江戸時代は、戦国時代の勝者である東海人たちが開いた全く違う世界なのだ。
例えば、「勤勉で粘り強いが、排他的」という一般的な日本人のこのイメージは元々は典型的な三河人の気質だった。

それが三河出身の徳川家康が天下をとり、その家臣たちが全国に散らばり領地を治めたことにより、日本人の特徴のひとつとなってしまった。

 

 

不平等条約は自爆

日米修好通商条約の際、実は幕府の経済テクノクラートは金の価値を与えられた一分銀はメキシコ銀1ドルに等しいときちんと理解していたが交渉していた幕府の役人はハリス側の言い分の銀の含有量をのんでしまった。

 

幕臣はいい人だった。

高位の幕臣が多額の賄賂を受け取って腐敗していたというのは明治政府の作り話。

幕府の行事に必要な経費を受け取っていただけで、懐には殆ど入らなかった。
むしろ格式を保つために持ち出しのほうが多く、役付きの幕臣の多くは経済的に困窮していた。
公金を横領したり料亭で官官接待を行うのは長州藩の文化。

 

 

時代劇でお代官は悪者役が非常に多いが実際は全くの逆。農民のために命をかけるお代官までいた。民の金に手を付けたのが発覚したらそれこそ刃物・切腹沙汰。上の代官が部下の不正を見つけたら即刻首を刎ねてたりもした。

江戸時代のある20年間(テレビの暴れん坊将軍の時代)には一回も牢屋が使われなかった事実が残っている。

 

みんなが地方に金の送金をするため河原の橋の下に名前と行先を書いた紙を乗っけただけの金袋を置いとくも、誰一人その金を盗むものはいなかった。江戸は大量に金があり、旅先で使えと子供に小判を持たすのが当たり前だった。


 これをペリーが恐喝して日本から大量の金を奪うことになった。アメリカの南北戦争はこの日本の金のおかげで勝利した。

 

金と銀の換金率が1対4なので開国したあと、それに気づいた外国人が銀を国内に持ち込み金に替えて持ち出した、諸外国は1対25なので日本の富は減っていく。

禿げ鷹は昔からいたんだねwww あと徳川埋蔵金なんかないし。

 

日本は世界有数の金の産出国であって、実は今も結構な量が出てきているらしい。

 

ペリーの黒船は型遅れ

ペリーの黒船 サスケハナ号は、当時最大のそして最後の外輪蒸気船だった。
時代はスクリュー船の時代に移り始めていた。

 

江戸時代には人間のミイラが薬として売られていた。

お年玉は大人が奉公先から餅をもらうのが最初

 

大名の江戸屋敷では、金魚や朝顔などの品種改良をやって売り物にしていた。

 

 薩摩は薩英戦争イギリスに一方的にボコボコにされたわけではなかった?

薩英戦争で英国艦隊は大打撃を受け、司令官が戦死した。

実は痛み分けだった。

その後、日本がイギリスと手を組む事からも、決して舐められた相手ではなかった

 

改革に失敗した阿波藩の殿様が押し込められる。

阿波藩の何代目かの藩主は改革をやろうとして家老たちに「押し込め」されている。

別の代は参勤交代で江戸に行く時の日記を残していて、○○に挨拶に行く決まりになっていたが、顔あわせたくないから使いの者に行かせたとか書いてる。


江戸時代町民は挑戦を馬鹿にするネトウヨ

「来日した朝鮮使節団を見物するのは良いが、指さして笑ったりバカにして囃し立てたりするのはやめましょう」
という幕府からのお達しが冗談ではなく出ていたw

 

妾は認められた職業

妾(メカケ)は立派な職業として認められていて、希望する女は口入れ屋(職業派遣)に登録していた。
条件等の話がまとまると口入れ屋立ち会いのもと、しっかりした契約書も取り交わされた。

 

 

先物取引の元祖は大阪

世界中で使われている「先物取引」と「ローソク足チャート」は日本人の発明

大坂堂島の米取引所では米の相場価格を遠地に伝えるため旗振り通信が発達し、
好天時に熟練の者が連係すれば大坂~広島間をわずか30分足らずで情報を伝えられたという。


江戸中期の両国の賑わいは、当時の世界有数どころか世界一レベル

 

山手線の浜松町の浜松は今の静岡県の浜松の職人が江戸に呼ばれて住んでたとこ

千両箱は一人じゃ絶対持てない

 江戸と大阪の喧嘩

初物に熱狂する江戸の町民に対し、「着物を売ってまで初鰹なんかを食いたがる江戸は理解できへん」と大阪のとある人物が書物に書いた。
それを知った江戸町民が「なんぼじゃと 聞けば鰹の 値は出来ず(いくらかいちいち気にしてたら鰹なんか食えねえケチくせえな)」と川柳でやり返したのが江戸大阪ゲンカの最初の記録。

 

 遠山の金さん

時代劇でおなじみの「○町奉行所」とか、表札の類いは全く無かった。

江戸に入った官軍が、役場の位置が判らんので看板上げさせたとか言われている。
遠山の金さんは、実は江戸末期の人

鬼平こと長谷川平蔵と、遠山の金さんこと遠山金四郎は屋敷が同じ

 

江戸の刺青

江戸では刺青を入れるのは特に珍しくない習慣だったが、

自分の意思で入れるものは「彫物」と呼び、罪人が入れられるものは「入墨」と呼んで区別した。

武士にも彫物をする者がおり、手首まで入れる「町人彫り」と二の腕までしか入れない「武家彫り」の区別があった。
時代劇の遠山の金さんは、武士の彫物をし、町人姿で街を徘徊する不審者という事になる。
なお、実在の金さんが入れていたのは桜吹雪ではなく、女の生首の図だという説がある。

旅籠とか茶店なんかでは彫物入れてる面積に応じての割引サービスやってるとこもあったくらい、当時はポジティブなイメージだったぽい。

まあ、抗生物質も麻酔もない時代に上は首から手首から、下は足首まで腹とアソコ以外びっしり彫物入れる痛みと施術後の感染症を乗り切ったんだから『強い男』の象徴として見られてたのかもしれない。

 

江戸中で麦茶が大ブーム(正確には温かいまま飲む麦湯)

 

 「江戸っ子」という呼び名の名付け親は大久保彦左衛門

ちなみに三代続いて江戸に生まれ育ったのが江戸っ子ということになっているけど
厳密にいえば、家康に付き従って江戸に移り住んだ先祖がいなければならない。

町人でも武器持てた?

江戸では武器を持って移動するのは町人でもお咎めなし。
刀を腰に挿して歩くのが駄目なだけで町人相手の町道場もあった。


そして旅道中なら腰挿しも認められていたから常に旅支度をして刀を差している渡世人と呼ばれる人達も居た、
旅支度じゃなくても「わらじ」を履いていれば旅道中と見なされていたそうだ。

 

侍の身分を金で買えた?

侍の身分は金で売り買いが出来た、と言うのは、
貧乏サムライの元に、商人などが持参金をもって養子に入る事で身分を手に入れる、

 

 

長州征伐時

第2次長州征伐の際、幕府軍の従軍者が後方の戦友に書いた手紙が生々しかった。
「甲冑・鎖帷子は全部脱ぎ、出来るだけ身軽にしろ。銃弾を防げないばかりか破片が体に食い込んで、ただ撃たれるより傷が重くなる」
「戦闘中は身を低くし、障害物に隠れながら素早く移動しろ。卑怯という考えは捨てろ」とか書いてあった。

 

幕末の老中小笠原壱岐守は第二次長州征討開戦前から(こらあかん)と、負け戦に備えて退却時の宿割の手配を済ませてた。

 

 

 

江戸のスタミナドリンクは甘酒

江戸時代では甘酒が夏のスタミナドリンクとして売られていた。

甘酒売りが街中を焼き芋屋みたいな感じで練り歩きながら売っていたという。
俳句でも甘酒は夏の季語と最近はまた夏の甘酒ブームとやらで正月の飲み物というイメージが払拭されつつあるけど。

 

 

 沖田総司甥、沖田芳次郎

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沖田総司には甥、沖田芳次郎というのがいて、彼はわずか十四歳で切腹介錯人を務め見事一刀で首を落とした


沖田総司の実姉お光と、沖田林太郎さんの間の子が芳次郎さん。

 

部落民、えたひにんの扱い

えた・ひにんは江戸時代では最下層の被差別階層と日本史で学ぶけど、
えた頭・ひにん頭が書面でお上に物申せるくらいには力があった。

江戸時代では禁忌とされた動物のトサツなどの関わる職業の人も多く、
そこから算出される革製品や、肉の卸販売など地域の産業の一角を占める人たちでもあったから、
普通の町民なんかよりも資産があった。

穢多頭の浅草弾左衛門なんて士装をして大きな屋敷に住み大名と同じ暮らしをしていた。
基本的に士農工商ヒエラルキーの下に位置していたというよりも、別次元の影の社会があったと考えたほうが実態に近い。

戸城で行われる将軍家の新年会に毎年招待されていた

新年の挨拶は月番の老中宅だったかな?
その時は大名行列を組んで駕籠に乗ってたって話もある。
蔑まれていたというよりも、「触れてはいけないもの」「見えてはいけないもの」「いないもの」の性格が強かったんだと思う。

 

時代劇の団欒は嘘?

時代劇で、主人公が椅子に座ってテーブルを囲んで仲間とかと酒を飲み交わすシーンがあるけど、
江戸時代には椅子もテーブルも存在せず、数人で囲んで食事する風習もなく、飲食は殆ど畳の上に座り、せいぜいお盆やお膳を使う程度だった。

 

蓮池好きの殿様。

蓮の花を観るために参覲交代の帰国の行列から抜け出して蓮池を見にいった殿様がいる。

滋賀県守山市の大日池に咲く近江妙蓮は、1本の茎から複数の花をつけるめでたい蓮として折々に御所や将軍家などに献上され、枯れ花でも縁起がいいと言われていた。江戸で大名たちの間で妙蓮が噂になり、丹波亀山(亀岡市)城主の松平紀伊守信岑は帰国で守山宿を通る際、お忍びで大日池に寄ることにした。宝暦13年(1763)7月8日朝、武佐宿をでた行列は野洲川の渡しに来たところで大日池の池守りと守山宿の役人の出迎えを受け、行列と別れた紀伊守は彼らの案内で大日池に行き、咲き誇る妙蓮を堪能し大変喜んだ。そして守山宿で行列と合流し帰国した。

守山市と近江妙蓮保存会が発行した記念誌の「近江妙蓮」に出てるよ

 

岡っ引き、岡は若干蔑称的な言葉?

 時代劇などでよく耳にする『岡っ引き』という言葉は、若干蔑称的な比喩である。なぜなら、『岡』は『山』に似ているが、『似て異なるもの』という意味が込められている。

岡っ引きは同心など警察権を持つ武士の手下であり、給料が発生しない。そのため見回りと称して屋台や露店等を営む人間から袖の下を貰って生活するものが多かったらしい。なので侠客などの顔役が十手をあずかるということが多々あったそうな。現在のヤクザのみかじめ料の原形かもしれない。

岡のついた言葉は他にも

『岡惚れ』=一目ぼれのこと、本気ではないとされた。
『岡場所』=遊郭は吉原が公営であり、それ以外の遊郭を指す。 等が在った。

 

 

江戸時代の大道芸

江戸から明治の大道芸人には乞胸や願人坊主がいて、門付で雑芸や祭文をしてお金を得ていた。
乞胸は非人系統で穢多頭の弾左衛門の支配下に置かれ、主に大道芸をやっていた。
願人坊主は僧形で寺社奉行の支配を受けており、雑芸や祈願代行をやっていた。
どちらも勧進を名目にした一種の乞食扱いで、半裸で群れて街を歩き唄い踊り回ってたりしていた。
ここからかっぽれや、ちょんがれ(ちょぼくれ)やあほだら経などの浪曲河内音頭や八木節やじょんから節などの民謡が発達し、浄瑠璃や落語にも影響を与えた。
祭文系の娯楽芸能は田舎では普通に明治以降の戦前まで見られた。

 

指きりげんまん

江戸では「指きりげんまん」の最後に 「死んだらゴメン」 ってつけてたらしい。
江戸商人の決まり文句で 「口にした約束は死なない限り守る!」って意味なんだって。

下手人は犯人という意味じゃなく死刑の種類のひとつ。

 

名君水戸黄門

名君とされる徳川光圀だけど、大日本史編纂の費用を賄うために年貢が高くて領民は結構酷い目になってた。
で、結局大日本史が完成したのは明治も末になってから。
そんなこんなで御三家なのに尊皇攘夷を主導したりして幕府に喧嘩売るような勢いだったんだが、内紛でにグダグダになり新政府になった頃にはすっかり人材が枯渇して影響力がなくなってたという。

 

水戸黄門なんかだと悪役の代名詞でもある「お代官様」って実際は領民の為に苦労努力する偉い人が多かったらしい。
飢饉に苦しむお百姓の為に切腹覚悟で幕府の御倉米を独断で配ったり。

まあ名君なんてテレビのイメージで、悪代官のモデルは光圀だろうって言われてるくらい悪行三昧だったからな。
若い頃は辻斬の常習犯
大日本史取材費用を捻出するため領民に八公二民の重税を課す
藩に反抗した住民を虐殺して集落を消滅させる
領民から搾取して贅沢三昧
気に入らない部下を刺殺
元々常陸国は肥沃な土地では無い所に実高二十~二十五万石なのに三十五万石と幕府に過大申告したのが領民の苦しみに
拍車をかけた。
領民の間では「水戸領に産まれたのが運の尽き」と言われていたとか。

 

佐賀の冨田さん

苗字の『冨田』さんはもともと『富田』だったが肥前唐津藩一揆が起こったとき、
首謀者として捕らえられた大庄屋富田才治が打ち首になったことで富の字のウ冠の点が
取られて以後冨田さんになった。

唐津に伝わる江戸時代のトリビア

 

くだらないものですが。

『くだらない』という言い方も江戸幕府ができてからの物らしい。

それまで、日本国の中心は京の都であり、上方と言えば、京都方面を指す。なので、京都の方から川を『降ってきた(くだってきた)』物は「下りモノの菓子」は高級品という認識があり
『くだらない』とはそれ以外の産地の物を揶揄した言い方であるそうな。

酒は伏見の下り酒。
牛の背中に樽括りつけて京から江戸まで運んでも、
中々飲めないほど人気が有ったんだってからな。
恐ろしく高価だったろうに。
逆に言えば江戸の経済力の凄さを感じる。

 

江戸時代、酒と醤油は上方のものが最上とされ、関東ではなかなか上質なものが作られなかった。
上方から江戸へ下ってくる醤油や酒を「下りもの」と呼び、
質の劣る近隣産を「下らないもの」と江戸市民は呼んでいた、これが「下らない」の語源
下りものはあくまでも酒と醤油についてのこと。

 

幕末には千葉で上質な醤油が作られるようになったが、酒は明治まで上方のものが上質だった。

 

裕福な人のカツオの食べ方

初鰹を食べるため、富裕な人は舟を沖に繰り出し、釣った鰹をその場で調理して食べた。
そうでない場合、飛脚が次々とリレー方式で町場に運んでいた。

現在とは屋形船の姿は大きく違い、二階建ての船が屋形船といったとか。

 

 「ちょう」と「まち」の違い

『ちょう』は町人の街(例:浜町・小伝馬町人形町茅場町新富町・神保町)
『まち』は元々武士の土地だが武士が家計の足しにするため町人に貸してできた街(例:御徒町・麹町・大手町・田原町

ちなみに『麹』町は元々『小路』町であり街道を守る幕府の下級役人の長屋があった。

 

 

置いてけぼりの由来

江戸時代に出来たと思われるのが、『置いてけぼり』という言葉で、今では人に置き去りにされる状況を指すけれど、当時の四谷怪談?か何かでお堀の近くを歩いていると「おいてけ、おいてけ」と聞こえて大層怖い思いをした。というのが「置いてけ堀」なのだとか。

 

日本が左側通行になってる理由

左側通行。これは当時武家が刀を腰に差すと、左側に鞘が突き出る。

で、この鞘がかち合うと、サムライ同士では喧嘩を売るのと同じような意味になったのだとか。

刀は武士の魂と言われたのも江戸に入って浪人者が身分証である刀に執着したことかららしいので、浪人が集中した江戸ではなるべく鞘がぶつかるのを防ぐために、道の左側を歩くようになったとか。

左側を歩けば、たとえすれ違っても鞘がお互いの反対にあるので安心という。

 

また『恋の鞘当て』という言葉もある様に、鞘当てが喧嘩の合図のように扱われたのは確かなようです。

恋の鞘当て

恋の鞘当て(コイノサヤアテ)とは - コトバンク

《遊里で一人の遊女をめぐって二人の武士が鞘当てをする歌舞伎の題材から》恋がたきどうしが争うこと。また、その争い。

 

 

猫も食べないマグロの身

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トロの部分は猫又と呼ばれた(猫がまたいで通る)

現代では高級魚のマグロは、江戸時代では傷みやすく調理法が無く、醤油が普及するまでは、ほとんど食べられなかったらしい。


マグロというか「トロ」の部分ね。

油が多くて、癖があり、足が速いこともあって江戸っ子には好まれなかった。
なので最高の部位は「赤身」の部分。


トロに関してはかなーり後の時代も食べられてなかったらしい。
まぁ結局電気冷蔵庫が出てきて、脂身=腐りやすいというイメージが払拭され始めて
やっぱ脂だよね見たいな文化が生まれたのが戦後。

 

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ねぎま鍋のマグロはトロだったと聞くが、

江戸時代 脂身はあまり好まれず、すでに上記にある通り、秋刀魚や鯖、マグロの大トロ等は好まれなかった。

最も、この理由は腐りやすいことから、庶民の手にぼて振り(棒にかごを吊るして商品を売り歩く人々)が売りに来るころにはすでに傷み始めていたことと無関係ではないそうな。

なので、冬になれば多少長持ちするため、それまで捨て値で売られていた大トロがネギと一緒に煮られ、ネギマ鍋として親しまれたそうな。

このネギマ鍋を食す時、ぶつ切りにしたネギを噛む際、内側の茎が勢いよく飛び出すさまを「ネギでっぽう」等とよんでいたとか。

ただ同然だから、貧乏人はトロをつかう。

 

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江戸時代のお寿司

 

最後に

既に相手が知ってるネタだと恥ずかしい時もあるが、

その瞬間、教えを乞う側に回ることで、より相手との距離感を縮めることが可能だ。

 

その変わり身を軽快にやるためにも、

雑学を語るときは、上から目線ではなく、「ただ純粋に好きだから聞いて欲しい」くらいの感覚で話をするくらいでちょうどいい。

 

使えそうだなと思ったら、婚活パーティー、合コン、Facebook婚活アプリ、LINEトーク使用前にブックマークから、このページを取り出し、ドラマのセリフを覚えるように暗記して使ってもいいだろう。

 

全部のネタ覚えれたら言うことないが、かなりの数があるので、1回のイベントで1個だけ持ち自分の持ちネタにしておくのがオススメ!

 

何回かそういう機会を作っていけば、5つくらい自分のものになっていて、被せ技もできるようになる。

 

しかし、基本はただ1つ。

 

集中的に覚えて使い自分のものにすることだけ。

 

雑学を話すときは焦らないこと、流れの中で話すこと。

 

江戸時代の話、花火大会の雑学・トリビア

jyunya78.hatenablog.com

 集合知の力でバージョンアップ

貴方が知っている面白い江戸の雑学、雑学を使って会話を楽しむ方法、有効なシチュエーションでの使い方、シチュエーションの作り方、話の切り出し方、その感想などコメントで教えてくれると嬉しい。

 

もちろん僕もいい方法を見つけたら、

惜しみなくこのブログで取り上げていく予定だ。